元祖川床
川床料理のご案内川床の由来についてENGLISH |
 
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川床料理のご案内

渓流の里、貴船に、夏の風物詩、川床の季節がやってまいります。
川床は大正後期ふじや先々々代、藤谷駒次郎がはじめました。
以来 、京都、唯一の避暑地としてたくさんの人々に愛されてまいりました。
川魚ひとすじのふじやにとりまして、川床料理はおもてなしの原点です。
忘れていたものを思い出す、ひとときの別世界へあなたを誘います。
プライベート、ご商談、ご接待、あらゆるご宴席にご利用下さいませ。

川床期間:本年6月1日より9月25日(日)まで。
(1部、お昼間のみ5月よりも始めます。詳細はお電話でお確かめ下さい。)

ご利用時間:午前11時より午後8時まで。(最終入店午後7時)

 お料理お一人様¥9.450(サ・席料別)より
ご宿泊お一人様¥21.000 (サ・席料別)より

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※川床期間中、川床のお席料としてお一人様¥1.050 頂戴いたします。

※川床期間中、雨天の場合、お部屋でのお食事になります。
 予めご了承下さいませ。

川床期間中にお出しております、うちわの句は、右画像、野村泊月様の句です。
泊月先生は大正から昭和にかけて高浜虚子らとともに
ホトトギスで活躍された著名な俳人です。


野村泊月句
野村泊月先生句

 

川床イメージ

川床の由来について  

 

聞き書き 京に生きて

ふじや先々代、藤谷虎男インタビュー 朝日新聞昭和52年6月12日掲載より抜粋

 川床は、ぼくが子供の頃、そう、大正の頃に茶店みたいなのをやっていた養父(駒次郎さん、昭和9年、61才で死去)が、五尺と六尺の畳ほどの床几(しょうぎ)を川の中に置いてみたんですわ。そのころはせいぜい流れに足をつけて、お茶でも飲みながら涼んだだけで、料理なんかは部屋で食べていました。ぼくが家業を手伝いだしたころ、(昭和初期)から客に好まれて床几をふやすようになりましてね。いまのような床にしたのは戦後のこと。「観光調」になったのは、ほんの十年前からなのです。

ぼくが九代目

いま、料理旅館は二十軒ですが、客が来るからいうて、収容度を拡張してみても、大衆化したりして、貴船のよさが失われるようでは、自分の首を絞めるようなもんや、いうてますのや。ほとんど土地がないことやし、この先も変わらんと思うんやが、変わるようではあかんと思うてます。川の汚れに気をつけ、昔風のひなびた雰囲気を守っていかねば、人が来んようになるのとちがいますやろか。
 貴船というところは、交通の要所でしてね、北丹波の周山から京都の町へ行くのに、芹生(せりょう)峠を越えて、貴船を通るのが最短距離だったんです。いまではみんな高雄を回っていますが。それで、ぼくのところは天保(江戸時代後期)のころから旅籠屋で、確かぼくが九代目です。わらじがけで芹生峠を越えてきた人らが、ぼくのところで着替えたりして服装を整えたそうです。
 大々的に料理旅館をするようになったのは、親父が年をとってからのこと。それまでは親父は山仕事をしたりして、母(まつ、昭和二十九年、七十三才で死去)が食べ物の味付けをして、客の世話なんかしてました。そのころ、他に茶店が一軒ありましたが、それもそのうちなくなったようです。

まず、でっちへ

小学校を出るとき、親父が「商売に勉強はいらん」いうて、でっちにやらされましてね。先生らが「勉強やらしてやってくれ」いうて頼んでくれたんですが、「商売にはいらんもんや」いうことで、おばさんがやっていた京都市内の料理屋へ五年間、でっちに行きましたや。
 わたしが家に帰った昭和の初めに鞍馬電鉄(いまの京福電鉄鞍馬線※注)が開通、やがて貴船神社と府立植物園(京都市左京区)のあたりを結ぶバスも走り出しまして、そんなことでにぎわうようになったんです。いまの民宿みたいなことをやってたんですが、川の中に置いた床几がえらい受けて、そのうち断りするようになったほどでした。それで、昭和五年に新築しました。
 歌人や俳人、それから画家ら名士の人らも好んでこられたようです。お手伝いの人が「いまのが川端先生(川端康成)やった」とかいったりしてましたね。富岡鉄斎さんらもよく来られました。
 戦後、世の中落ちついてくるにつれ、やっと来る人もふえるようになって、昭和二十七年でしたか、「貴船観光会」をつくりました。そのときの料理屋や茶店は五、六軒でしたね。ぼくは「ここは観光でしか生きる道がない」と思うてましたので、鞍馬からハイキング道の整備をやったり、川掃除なんかに精を出してきました。おかげさんで、その通りになってきましたんで、それでよかったと思ってますのや。

涼しさは最高

夏は涼しいですよ。町(京都市内中心部)とは十度は違う。町が三十五度なら、床なら二十二、三度かな。真夏でも夕方になると、ゆかたがけの涼み客が「トッパーを貸してくれんか」というほどなんです。
 ここでは、こたつとすだれが入れ替わるんです。床は六月一日から九月いっぱいなんですが、五月いっぱいこたつが離せません。こたつが終わると、すぐに床とすだれ、それがすむと、どうかしたら十月中にこたつがいるんですよ。というても、冬はそんなに寒くないんです。強い風が当たらないためでしょうかね。まぁ、すごしやすいところですねえ。 だけど、ここは土地がないんで、食糧をよそから移入しなければならんもんだから。戦争中は苦労しましたなぁ。ぼくは昭和十七年から当時の愛宕郡鞍馬村の収入役に引っ張り出され、前後、二年間ほど村長をやらされたんですが、食糧の見通しが立たなかったことに弱りました。栄養失調で亡くなるものが出るし、そのときの千二百人の村民の食糧確保で精根が尽き果てましたね。
 ヤミもやりましたよ。「鞍馬炭」はやわらかい炭で知られていたんですが、供出の割り当てをごまかしたりして、ムギと交換したもんです。何もでけんような狭い土地にジャガイモを植えたりしたもんですが、ネズミのしっぽみたいなものしかできず、ほんまに苦労しましたなぁ。

三度も水害に

貴船はええとこなんですが、かなわんのは水害ですな。何度も家が流され、昔の水害ははっきりした記録がないんやけど、ぼくが家業をするようになってからでも、三度水害にあっているんです。昭和十年と二十六年、三十四年です。
 十年六月のでは、床の間のちがい棚まで土砂に埋まりましたよ。二十六年のときは、貴船神社の山腹が土砂くずれを起こし、ぼくのところの本館がやられました。三十四年のときは、貴船川へくずれ落ちた樹木や土砂が流れを止めたため、あふれた川の水がいまの道路のあるところをまともに流れ、ぼくの家や貴船神社の鳥居なんかも流されました。十年のときは鴨川もあふれ、先斗町あたりは水びたしになりましたね。
 ふだんはおだやか流れなんですが、この奥は芹生峠まで五キロもあるし、枝谷もいっぱいあるんで、集中豪雨になると、こわいんですよ。大水になると、近くの小高い場所へ逃げるんですが、いまある二十軒はそれぞれ四つの地区に別れて、四カ所の避難場所へ行くんです・・・。(あと省略)

※注 現在は叡山電車鞍馬線になっております。

(朝日新聞昭和52年6月12日掲載より抜粋)


 

先々代藤谷虎男

先々代藤谷虎男

 

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