湯布院でワシも考えた・・・・

湯布院レポートもしくはノート


平成13年5月14日全国芽生会熊本大会のついで?に、はじめて、待望の湯布院は亀の井別荘さんに一泊させていただきました。ワシも考えさせられました・・・。
 H13年5月15日午前10時30分頃の由布岳
湯布院盆地は盆地である・・・?

で、なんとかハイウェイ(九州を縦断している)の湯布院インターを降りると何ともない町の展開であり、まず「なんともないなぁ」という実感あり。しかし、この「なんともなぁい」はけっこうクセモンであり、湯布院は「なんともなぁい」を望んでいることを後で気づくことになる。「生活観光地」なるモノが目指すものらしい。
 湯布院は観光地らしくない町だ、と言われる。それは、まあそうだ。
 しかしこの町の健全志向は、たかだか三十年来の「町づくり」とやらいうもののせいで急激に発生したものではない。もっと歴史的な産物だと思う。(・・・・・・)

 昭和四十年代の初頭に岩男頴一町長が町の性格を「保養温泉地」と定めたのが町づくりの始まりと言われていて・・・、さらに遡れば一六世紀末から一七世紀初頭にかけて、湯布院がカソリックの村であったこと。これが、いわゆる進取の気風を生んだ遠因とも思えるし、その後、江戸期にカソリック対策として徹底的な分散放置がとられた結果、地元の庄屋が「自立」の精神を強めたことも考えられる。(・・・・)

 さて、陸軍や、工事関係者の流れで急激に紅紅の温泉と化してゆく由布院に「まった」の楔を打ち込んだのが別府観光の父といわれる油屋熊八翁である。金鱗湖の周辺に要人招待の別荘を造り、時の宰相や大臣、財閥、文人墨客を次々に招いた。それらを堂々と迎え入れ、分厚く支えたのが、前述の「進取共生」の庄屋の末裔たちであった。(・・・・)

中谷健太郎「湯布院幻燈譜」)
 この引用は湯布院をリードされてきた亀の井別荘のご主人のものである。
 湯布院へ入ってまず気づくのは、いわゆる「温泉地」にみられる大規模ホテルの建物群がないこと。そして宿泊施設が(とりあえず亀の井別荘のみの印象になるが)リゾート型というか、滞在志向(最終リピーターにたえうる)であることである。われわれのようにいわば「一宿一飯」型の「旅館」ではない。一種、アジアのリゾートホテルのような雰囲気があるわけだ。日本型オリエンタル?だ。
 村の将来に対して百年の計を誤りなくうち立てることができるか。それは時代の中で大規模な温泉旅館というか著名な温泉町がどのような悲惨な末路になってしまったか、ではっきりされたことだ・・・。湯布院は耐えてきたと言えるだろう。湯布院の町をレンタル自転車でかける娘ら

 確かに「町」が確かなビジョンを持てたということは賞賛されてよいことである。少しだけ悲しいのは(湯布院にとって悲しいわけではないが)湯布院の滞在志向はいわば「贅沢」の近代化なのである。「文化」性?を志向することが同時に確かで強固な資本制に根ざすことを確認し得たのがわたしの湯布院レポートの皮肉な結果である。われわれサービス業はいやでもこの渦中にいるといわざるを得ないであろう。
 亀の井別荘の喫茶棟(図書が閲覧できる)、カフェ棟(バー?施設)、こういった数々の滞在型もてなしの機能の向こうに建築物の形式は違うにしても「オリエンタル」ムードいっぱいのフィリピンやタイの小島のリゾートホテルを思い浮かべ、のんびり静養している西欧人をはしなくも実感してしまい、いったいこの宿屋で感動している自分は誰なのだろう?と考えなくてもよいことをイヤでも考えさせられた・・・。

ハテサテ、ワガ村はいったいどのような百年の計を持てばよいのだろうか?

(未完)

※ちなみに意味のない蛇足ではありますが、亀の井別荘サンのお客様の中には磯崎新、浅田彰、蓮実重彦、デリダ等々がおられます・・・