12/1 12/2 12/3 12/4 12/5 12/9 12/10 12/11 12/12 12/13 12/14 12/15 12/16 12/17
12/18 12/19 12/20 12/21 12/22 12/23 12/24 12/25 12/26 12/27 12/28 12/29 12/30 12/31
餅
古語ではモチヒと呼称しており,モチイヒ(糯飯ないし黐飯)の約語と解釈したり,鏡餅を典型とした円形状の食物であるから望月の望と同意とする説もある。いずれにせよ,もち米を蒸して臼に入れ,杵で搗(つ)いたうえで,いろいろの形につくったものを餅の字で表してきたのであるが,餅という漢字は日本独自の使い方であり,中国の用法とはまったく異なっている。風俗学者で食物史家の篠田統(おさむ)(1899‐1978)によると,中国では饅頭(マントウ),餃子(チアオズ)などの小麦粉製品の総称が餅(ピン)であり,小麦粉そのものが乏(ミエン),小麦以外の穀物(米,アワ,キビ,豆など)の粉製品を品(アル)といい,品がのちに細かく分かれ,よくこねて大きいままで蒸したものを賓(カオ),小さくまるめて蒸したものを円(ユワン)(錨とも),円の中に餡を入れたのを団(トワン),米を粒のまま蒸してから搗いたのが鰭(ツー)であるという。すると中国の鰭が日本の餅にあたるわけであるが,日本では鰭は粢(しとぎ)のことである。この混乱は日本人が漢字を採用した際に起こった誤訳によるもので,篠田はその著《増訂 米の文化史》(1977)において,表のように対比して整理を行っている。ここでは日本流の使い方としての餅の字を採用して記述する。(中略)
日本において餅を搗く機会は神祭や通過儀礼などの非日常のおりと,日常の食物としての餅を調製する目的との二つがあった。非日常の餅としては鏡餅に代表される白餅をはじめとした儀礼的食物であるが,その背景には稲霊(いなだま)信仰があったと考えられる。すなわち,稲は1粒の種子粋が発芽し,田植後は分げつして多くの穂を実らせていく。その繁殖力の強さと豊穣性に対して,稲自体に穀霊としての神の存在を認識したのであろう。儀礼のときに作られる餅は稲霊をかたどったものであり,きわめて神聖な対象であったことは,《豊後国風土記》や《山城国風土記》逸文に,餅を的にして矢を射たため,その餅が白鳥に化して飛び去り,長者は滅びてしまったという〈餅の的〉説話に見られるように,神そのものと考えられていたのである。そうした餅を人間が儀礼食として食べるということは,神の霊力を体内に鎮め,生命力を再生・補強することであった。新年の年玉(としだま)は年魂であり,昔は餅を各人に授けて年をとらせる習俗が各地にあったが,鹿児島県の需島(こしきじま)では現在も新年の夜にトシドンという神が各家を訪れて餅を授け,その餅をトシダマといっている。年の改まった新年にはとくに稲霊によって生命を再生させるために,餅に対する期待が強かったのである。(後略)
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 坪井洋文
は・く【佩く・帯く・着く・穿く・履く】 他五・下二 腰につける。さす。帯びる。記中「やつめさす出雲建(イズモタケル)が―・ける太刀つづら多(サワ)纏きさ身なしにあはれ」「一つ松人にありせば太刀―・けましを」 腰から下の部分を覆う衣類を身につける。うがつ。「ももひきを―・く」 《履》 (下駄・靴・足袋・靴下などを)足先につける。万九「髪だにも掻きは梳らず履(クツ)をだに―・かず行けども」。源浮舟「わが沓を―・かせて、自らは供なる人々のあやしきものを―・きたり」。天草本伊曾保「足袋(タビ)を―・き」 弦を弓にかける。万一四「陸奥の安太多良(アダタラ)真弓はじき置きて反(セ)らしめきなば弦(ツラ)―・かめかも」。万二「梓弓弦緒(ツラオ)取り―・け引く人は」(広辞苑第四版)
宮本武蔵 1584‐1645(天正12‐正保2)
みやもとむさし
江戸時代初期の剣豪。二天一流(円明流,武蔵流ともいう)剣法の祖。《五輪書》の著者。二天と号した。日本の剣道史上最も著名な剣豪の一人で,小説,舞台,映画などにもなっているが,伝記については必ずしも明らかではない。出生地についても,播磨(兵庫県)の宮本村説と美作(岡山県)吉野郡宮本村説がある。《五輪書》では播州の出生とする。父(養父とも)は新免無二斎。《五輪書》によれば,武蔵は幼少のころから兵法を心がけ,13歳ではじめて試合をして勝ち,28〜29歳まで60余度の試合に一度も負けなかったといわれる。最後の試合は1612年(慶長17)武蔵29歳のとき,佐々木小次郎との巌流島の決闘であったらしい。30歳以後は,ひたすら剣理の追究,鍛練を重ね,50歳ころになって兵法の道を体得したという。40年(寛永17)57歳のとき,熊本城主細川忠利に招かれて客分となり,忠利の求めに応じ,二天一流兵法を《兵法三十五箇条》にまとめて呈している。43年10月から死の直前にかけて,岩戸山にこもって《五輪書》を書き上げたといわれる。45年(正保2)5月19日,同地で没した。 中林 信二
武蔵は剣のほか書,画,彫刻などにも非凡な才があり,すぐれた作品を残している。とくに水墨画では,師承関係は明らかでないが,気魄のこもった鋭い表現を特色とし,武人画家の最後に位置する画家として着目される。東寺勧智院に武蔵の作と推定される水墨の朕絵が伝存しており,武人の余技を超えた本格的な作品である。代表作に《枯木鳴鵙(めいげき)図》(久保惣記念美術館)などがある。 鈴木 広之
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
吉川英治 1892‐1962(明治25‐昭和37)
よしかわえいじ
大正・昭和期の代表的大衆小説家。本名英次(ひでつぐ)。神奈川県久良岐郡中村町(現,横浜市)生れ。父は早くから横浜で牧場経営をはじめ,いくつかの事業に手を染めるがいずれも失敗し,訴訟事件で敗けたこともあって家は傾き,英治もそれに伴って浮沈のはげしい生活を体験,学校を退いて各種の職業を転々とする少・青年期をすごした。横浜船渠(ドツク)の船具工当時事故で負傷し,それを機会に志を懐いて上京,金属象嵌師の徒弟などをしながら,しだいに文学の世界に接近,雉子郎の号で句作に努め,《大正川柳》の編集に従う。22歳のとき《講談抑楽部》の懸賞に応じて処女作《江の島物語》を投稿,第1席となった。毎夕新聞社に入り,《親鸞記》ほかを連載したが関東大震災で辞し,講談社系諸雑誌にいくつもの筆名で作品を発表,《キング》の創刊号(1925年1月)から連載した《剣難女難》以後,吉川英治を名乗った。初期の作品は《神変麝香猫》《鳴門秘帖》など伝奇性に富む時代ロマンが多く,大衆文学の草創期を飾ったが,1930年ころから新たな模索に入り,《かんかん虫は唄ふ》《松のや露八》を経て《宮本武蔵》(1936‐39)に到り,国民文学へ向かう可能性を示した。戦中から戦後へかけて《新書太閤記》《三国志》《新・平家物語》《私本太平記》をまとめ広く読まれた。60年に文化勲章受章。62年に70歳で没した。青梅の旧居は記念館として77年開館された。 尾崎 秀樹
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
牡丹鍋 [料理] 料理東京付近ならば丹沢,伊豆,秩父,関西ならば京都周辺などをはじめとして,冬になると牡丹(ぼたん)なべの看板をかかげて猪料理を売物にするところは多い。牡丹と呼ぶのは,鹿を紅葉(もみじ)というのと同様,それが〈獅子(しし)〉の縁語であるところからの転用である。縄文時代の遺跡から出土した獣骨のうち,鹿に次いで多いのが猪であることは,捕獲の機会が多かったことと同時に,その肉が日本の野獣の中では鹿とともにもっとも美味であったことも,理由として考えられる。江戸時代後期には山鯨と称して獣肉を売り,また,料理して食べさせる店が多く出現した。山鯨というのは,魚とされていた鯨に擬した獣肉の総称であるが,そうした店の主力商品は猪だった。ネギをいれてなべ煮するのが一般的な食べ方だったが,羽倉外記(簡堂)はその著《饌書(せんしよ)》(1844)の中で,東坡煮(とうばに)にするのがもっともよいと述べている。東坡煮は東坡肉(トンポーロウ)ともいい,蘇東坡が好んだという角煮である。
鈴木 晋一
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved