4月10日(月)
- 雨。腰痛が出る。そうひどいものでもないが、うっとうしい。それでも明日の総会旅行に備え、組合へよる。
- 9日は村のTクンの結婚式。中途半端な終わりの時間であとは例のごとくというか、村の皆さんと、遅い夜になる。
- 評判の西村賢太「どうで死ぬ身の一踊り」(講談社)、石井某「おそめ」読む。西村賢太というのは若い人らしいが、藤澤清三なる明治の作家に自身を重ね、憑かれた?バリバリの私小説?。まぁ、生活はめちゃめちゃでも、藤澤清三の資料収集としては、たいした仕事なわけだから、ある面、幸せにも見える。小説としては「墓前生活」のほうが、小説らしい。そう、おもしろいものでもない。「おそめ」は銀座・京都の有名マダムのドキュメントで、これは読み出せば読ませるが、なんでこんなもんを夢中に読んでいるのか、と思い出すととことんバカらしくなる。ということでバカらしい。
4月6日(木)
- 晴れ。
- 今日はともクンの入学式。何故か、小生も参加することになる。男親は小生のみで、よく考えると小生の時の入学式も親父は当然仕事で来なかったと思うので単なる親バカであった。
しかし、校長先生の式辞もバカらしいもので、地域に根ざした教育方針なるものも、具体的にはさっぱりわからん。だいたい公教育は学区制であるから、もとより地域に根ざしている。PTA会長さんの、たいへんな事態、というのも、だんだん新入学児童が減少していくことをさしているので、別に子どもがたいへんであるわけでもない。1クラスが少人数だからといって、子供達の教育、あるいは将来に、特別に意味があるわけでもない。そのような意味でいえば、大人数?教育、少人数教育、それぞれいい面悪い面があって当たり前のことである。ことさら親が悲観的になることでもない。勉強という意味でいえば、相対的に教師の一人あたり児童は当然少ないわけだから、贅沢だといえばいえるかもしれない。
問題は児童が減ろうが増えようが、どんな地域の環境であろうが、教師達自身が学校の教育方針を毅然と、世界、あるいは大げさにいえば真理へ向けて、子どもや親へ自信を持って指し示せないことにある。変に地域、あるいは独自色などと、考えなくてよいことを、ことさら大げさに意味ありげに取り上げていると、安心してしまう、旧態依然の教師資質にあるのかもしれない。子供達が披露していた、虎杖の笛などその典型。教育的な実績としては安易な教材なんだろうが、こんな不安定な音程は音楽情操教育?としては最低な物だと思う。音痴な子供しか産まないと思う。どうせやるなら、その道のスペシャリストを呼んでこおい(そういう時にこそ地域性は活用されるべきだ)。虎杖の音に驚きと貧乏な(あるいは地域的な)?創意工夫を認めてもよいが、音楽の感動・楽しさはなあい。と思う。こんな実績を教育的な実績と錯覚しているから、親に不安を招き、私学を選択させてしまうんである。
少人数であろうと、僻地にあろうが、世はインターネット時代、どこに住んでいようが、文字通り世界にいつでもつながっているんである。教育的には環境的差異、意味はだんだんなくなるだろうから、いきおい教育の原理性?への模索が強まらざるを得ない。それは、だから、教師に従来の空間的な赴任(どこの地域への赴任)の意味を無効にするはずである。それをふまえてから、地域性、育てることの自信(教育方針)を明示しなければならない。
トップ情報?はこの時代、いつでも開かれてある。すべからくどの学校もそれにさらされる。それは「社会」の変化とはまた違った意味(変化であることに間違いはないが)でもある。いつでも先生は堂々とそれに答えなければならない。まぁ、えらそうにのたまっている場合ではないが、何卒、よろしくお願いします。
4月4日(火)
- 晴れ。
- 2日は当方当番、F会。3日、午後、JALの京都支店、M会旅行打ち合わせ。
- 3日の京都新聞、余録(朝日の天声人語のようなコラム)によれば注意欠陥移動性障害(ADHD、attention-deficit/hyperactivity
disorder)という脳機能の障害について書かれている。7歳児くらいまでに見られる発達障害の一種らしい。「落ち着きがなく授業中でも勝手に教室を出たりする」(京都新聞)ような症状らしい。小生、はじめて知った。
少人数の我が娘のクラスでもいろんな子ども?がいて、それなりにいろんなことが起きているらしい(我が娘のクラスにADHDの子どもがいるわけではない)が、一概に病気とはいえないにしても、世間が病的になるだけ、学校にも病気めいたことが起きて当然ではある。問題は、環境(親)、あるいは社会に原因をもとめたところでわからない面があるが、親的には自分を責める悪循環自体が病気めいてくるからやっかいになってくることにある。つまり子ども本人が不在になってくる。発達障害は病気であるから、病気として対処する必要があるということだろうが、誰にでもあるような症状なだけによくわからんところもある。個人性、環境性、こういった原因模索を否定する動きなんだろうか。そうなるとなんでもかんでも病気になってしまうような気もする。ベテラン教員は経験的に現象を把握できているような気もするが、「病気」で安心しているのか、よくわからんところ。
- NHKおはよう日本のアナウンサーが高橋さんより首藤奈知子さんに交替になっている。平成15年入局らしいから大抜擢といえるかも。武内陶子さんの高校の後輩であるようであるから、アナウンサーのそれなりの環境があるのかもしれん。NHKの検索ランキングがなんと現在1位になっている。おはよう日本のアナウンサーと午後7時のニュースのアナウンサーはNHKの顔である。特におはよう日本の午前7時台は女子アナ的には出世コースといえるもの(男的にはよくしらん)。武内さん、高橋さん、然り。案の定、高橋美鈴さんは3夜連続のNHKスペシャル「ドキュメント北朝鮮」のナレーションを担当している。特別な番組のナレーションができるというのが、たぶんNHKの女子アナの悲願なのだ。というか、それがNHKの看板アナウンサーの意味ナンである。なんといっても「映像の世紀」における山根アナウンサー。力が入ったスペシャルのナレーションには必ず山根さんがでてくる。これはそれ自体、NHKにおける不動の地位の象徴である。確か山根さんは女子役員である。ということで高橋美鈴さんは王道を歩き出したというところ。うーむ。
- 拓郎の昨年のツァーを再び見ていたら、やっぱ少し興奮してしまった。「家へ帰ろう」という曲は知らないが、少々考えさせられた。フィナーレは「人生を語らず」でそれからアンコールになり、アンコールの最後は「落陽」。この流れはおっさんになった拓郎ファンからいわせれば王道で、ストリングス付きのフルバンドであるから、もうどうしようもなく盛り上がるというもの。「落陽」の登場は、72年のライブでフルバンド、フルバンド編曲でほぼ新曲・新編曲ばかりのライブをアルバムにした前代未聞のものであった。いささか、感慨にふければその昔、たぶん中学の頃、この「落陽」、泉谷しげる「春のからっ風」、岡林信康「私たちの望むものは」、この三つの曲を取り上げて「所謂フォークに関する試論」なる文章をクラスの回覧ノート?に書いたことがある。今でも、誰かのところにあるかもしれん。高校卒業の頃、K村M春クンが「ヒロノリがメチャ長い文章書いているノートがなんでや知らんけど、ワシの家にあるでぇ」といっていた覚えがある。「落陽」は歌詞は岡本おさみであるが、72年は確か連合赤軍事件の年でもあり、最終、「落陽」の歌詞にフォークがあると結論した趣旨であったような気がする。この歌が喚起するイメージは俗ではあるが、「じいさん」「男」「サイコロ」「テープ」「振り出し」「旅」、それらが「落陽」にみな収斂していき、せつなく、哀切きわまりない時代への、あいるは青春への別れになっていて、ロマン主義の極地のような歌である。しかも見事な編曲で、悲しくも盛り上がってしまう。
今回のツァーでは拓郎の最後の立ち姿、ステージから深々とおじぎをし、手を合わす姿と目つきに異様なものを感じた。異様な「落陽」であった。
小生、その昔、広小路の学生会館からYクンと帰り道、突然ポツリとYクンが 「春のからっ風」のフレーズ、「誰が呼ぶ声に答えるものか・・・」を歌い出したのに戸惑ったことがあるし、和歌山、新宮高校出身の産大生、バイトのTクンが寮で酔っぱらうと「落陽」を歌っていたことを思い出す。そしてやっぱり「落陽」は身体ごと、揺さぶられる。「落陽」はその意味で偉大なる音楽である。
4月1日(土)
- 晴れのち曇り。
- 春だなぁ。
GRデジタル、マクロの威力。
たまたま店前で見つけたテントウムシと謎の虫。GRデジタルではマクロは1.5pまで寄れることになっている。
肉眼で 1.5pの世界は近眼以外見ることができないと思う。
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上記2枚はフォトショップで解像度修正、web保存以外は何もしないまま。
この虫はテントウムシより大きく、直径1pくらいある。しかも走る?のが速い。
実際の画像では虫についている水滴がもっとよくわかります。ついでに眼?あたりにある血?みたいなものもよくわかります。
ちなみに虫が歩いている葉っぱはお寿司で見るいわゆるバランの本物であります。
※調べたところたぶんカメノコテントウ
。
右はテントウムシと思われる。 修正は上記同様。
ともクンによればナナホシテントウというらしい。でも確認できる限りホシ?は12個はある?
※調べたところナミテントウ(いわゆるナナホシテントウ)の紅型。
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