バレエというのは骨というか、骨格というか、そういうものがまず採点の基準になるらしい。
だから、才能ではない。というか、それが才能といえるかもしれない。
要するに踊りは二の次?であるらしい。
著名なバレエスクールの入学審査は踊っているビデオもいることはいるが、基本的なスタイルの静止写真?がまず重要であるらしい。だから、する人はその写真をデジタル修正したりしている。
形という点ではわりと日本的な?面もあるんである・・・。
先日、NHKのプロフェッショナル?なる番組に付き合わされたが、テーマは吉田都?なる、バレエのひとであった。
もちろん、小生はどういう人であるのか、まったく知らなかった。
著名なバレエダンサーらしいが、しかし、失礼ではあるが、これがひどくブサイクな方なんである。
したがって、その奮闘ぶりの動機が、なんか涙じみて思えてくる。
小生が知っているバレエダンサーは草刈民代か森下洋子?くらいであるが、まぁ、森下洋子は別にしても、草刈民代はコンクール上がりではないらしい。
通常、コンクールというのは学資免除を目的として皆受けるらしい。草刈民代はその意味ではお金持ちであるらしい・・・。
なんか、よけい吉田都さんがいい人みえたが、何故か、それも嘆かわしいというか、涙ぐましい・・・。
小生、娘に「・・・どっちかというと、住吉さん(NHKプロフェッショナルのアナウンサー)みたいになる方がいいと思うけど・・・」と伝えるのが精一杯であった・・・
ところで、なかなか手に入れることができなかった吉本講演CDの最新「ハイイメージ論」を手に入れる。
これはDVD収録のビデオ映像で、1993年に大阪で行われた6時間にも及ぶ講演・質疑応答を収録したもの。(当時、このような催し物は知らなかった。知っていたら行っていたと思う。)なんでもこのシリーズも次回配本で終了され、弓立社を離れて別の形で新たな企画が始まるらしい。弓立社の宮下さんも資金的な援助を得られたのかもしれない。
このシリーズがもどかしいのは活字化されている方が多い点だ。
さすがに6時間にも及ぶ講演・質疑応答を見るのはツライが、CDについている冊子に岡井隆が気になることを書いていた。
それは、その昔、『野性時代』に連載された連作詩?についてであった。この連作詩はのちに『記号の森の伝説歌』にまとめられたものである。と思っていた。
つまりはこの連作詩は見ることができないものと思っていた。
ところが、なんと『全詩集』にはちゃんと両方あるんである。
大枚はたいて『全詩集』はなんとか購入したが、はっきりいって、ほとんど見たことはない・・・
岡井隆は連作詩に励まされた云々と書いている。
岡井隆が上げているのは連作詩では『モザイク』という詩。『記号の森の伝説歌』でそれに対応していると思われるのは『戯歌』という2番目の詩である。
「不安が一番確かな
気晴らしだ」といった男はどんな
生涯を送ったか
・・・
・・・
・・・
天職をみつけられなかったものは
どこへゆくか
天職を妨げられたものはどこへゆくか
天職などなくある日ふと
荷を背負わされたものはどこへゆくか
わたしの幻影が作り上げた村々に
わたしが入ってゆくときの
未知の怖れのために
これらは『戯歌』においては
次のようになっているし、内容も変わってくる。と思える。
「不安がいちばん確かな
気晴らしだ」とおしえた父はどんな
生涯を送ったか
・・・
・・・
・・・
墓をみつけられなかったものは
どこへゆくか
墓碑銘を妨げられたものは どこへゆくか
墓などなく ある日ふと
荷を背負わされたものはどこへゆくか
じぶんの幻影がつくりあげた村々に
じぶんが帰ってゆくとき
未知の怖れのため
ふるえた
『モザイク』では最初と最後の詩句だが、『戯歌』は最初の連である。
ということで連作詩と『記号の森の伝説歌』は同じものだと思っていたものとしては、少々新鮮であり、『記号の森の伝説歌』を読もうと思うし、岡井隆のように連作詩が新鮮にも思える。吉本の「村」は谷川雁の「村」とは違う。
そして久しぶりに読んだ『島はみんな幻』
〈きみ〉はしるまい
〈きみ〉が〈クニ〉と称して恨んだりよろこんだりしているもの
が じつは幻の島にすぎないこと
〈きみ〉はしるまい
〈きみ〉が島と称して辺境をうかがうもの
が じつはさびしいひとつひとつの〈クニ〉であること
ちょっとやってやろうじゃないの、と変な気分になってくるんである・・・